人間はどのようにして1万種もの匂いを識別しているのでしょうか?それを知るためには、匂いとそれを受け取る受容体の対応関係を明らかにする必要があります。生物科学部門の広津助教らは、生体内における匂いと受容体の対応関係を網羅的に解析し、同じ匂いでも濃度によって異なる受容体が働いていることを突きとめました。この研究成果はオンラインジャーナルScience Signalingに掲載されました。
人間は匂いを感じる時、まず鼻にある嗅覚感覚神経の嗅覚受容体で匂い物質を受け取り、その情報が電気信号として脳へ送られていきます。人間は約1万種の匂いを識別できると言われていますが、嗅覚受容体は約350種しかもっていません。これでは受容体の種類が圧倒的に足らないようにも思えますが、一体どのようにして1万種もの匂いを識別しているのでしょうか?
この疑問の答えを探すためには、匂いとそれを受け取る受容体との対応関係を明らかにしていく必要があります。しかし、これまでそのような試みは部分的にしか行われておらず、特に生体内における対応関係はほとんどわかっていませんでした。
広津助教らは生体内での解析が容易な線虫C. elegansを用いて、匂いと受容体の対応関係を網羅的に解析することにしました。線虫は嗅覚の優れた生物で、犬と同程度(人間の3倍以上)の種類の嗅覚受容体をもっています。また匂いを感じる仕組みも哺乳類とほぼ同じであるため、嗅覚研究のモデル生物として適しています。しかし、匂いとの対応関係が判明している受容体はたった1個しかありませんでした。
受容体と匂いの対応関係を調べる為に、特定の受容体をもたない線虫を用いて匂いに対する反応を調べていきました。線虫体内で嗅覚受容体遺伝子の機能を阻害することで、特定の受容体をもたない個体を用意できます。また、匂いに対する反応の指標としては、線虫は好きな匂いには近づき、嫌いな匂いからは逃げるといった化学走性を利用しました(図1)。
走性に変化をもたらした遺伝子をピックアップしながら約12000回にも及ぶ解析を繰り返しました。その結果、調べた全ての匂いについて候補遺伝子を得ることに成功しました(図2)。この成果は、線虫において世界で初めて匂いと受容体の関係を網羅的に明らかにしたものであり、今後の嗅覚解析の基盤データベースとしても非常に有用です。
人間は同じ匂いでも濃度によって好き嫌い(嗜好性)が変化することが知られています。例えばインドールという匂い物質では低濃度の時はジャスミンの香り、高濃度の時は糞尿臭がします。線虫も同じ様に、ジアセチルという匂い物質が低濃度の時は好みますが、高濃度になると嫌いになります。ここで新たな疑問が生じてきます。同じ匂いでも濃度が異なる場合には、受容体はどのように反応しているのでしょうか?
この興味深い疑問についてさらに解析を進めました。これまでジアセチルの受容体としてはODR-10が知られており、この受容体をもたない線虫(odr-10変異体)はジアセチルへの反応が低下するはずです。しかし実際に反応が低下したのはジアセチルが低濃度の場合だけでした。つまりODR-10は低濃度のジアセチルに反応する受容体であると考えられます。それでは高濃度のジアセチルに対しては何が反応しているのでしょうか?そこで、今回の研究で新たなジアセチル受容体の候補として得られたSRI-14について同様な実験を行ないました。受容体SRI-14をもたない個体(sri-14変異体)では、先程とは逆に高濃度のジアセチルに対してのみ反応が低下しました。さらに、ODR-10は好きな匂いを受容するAWA感覚神経で、SRI-14は嫌いな匂いを受容するASH感覚神経で機能していることもわかりました。
次に、これらの感覚神経とジアセチルの対応関係を調べるために、カルシウムイメージングという手法を用いて神経の応答(神経が活性化した時に起こるカルシウム濃度の上昇)を測定しました。その結果、先ほどの実験結果を支持するようなデータが得られました。通常の個体では低濃度ジアセチルに対してAWA感覚神経が応答しますが、odr-10変異体は応答しなくなります。一方、通常では高濃度ジアセチルに応答するはずのASH感覚神経は、sri-14変異体では有意に応答が低下しました(図3)。さらに、受容体SRI-14と高濃度ジアセチルとの関係性を決定づけるため、本来SRI-14が働かない別の感覚神経で働かせて実験を行いました。するとその感覚神経が高濃度ジアセチルに強く反応するようになりました。
以上の結果から、同じ匂いでも濃度によって別の受容体が使われる事がわかりました。低濃度ジアセチルはAWA感覚神経にあるODR-10で受容して好きと感じ、高濃度ジアセチルはASH感覚神経にあるSRI-14が受容して嫌いと感じているのです。
線虫は犬とほぼ同数の嗅覚受容体を持つ嗅覚の優れた生物であることから、麻薬探知犬のように有害な物質、有益な物質の匂いを感度良く認識している可能性があります。その場合、本研究の技術を用いれば、線虫を用いることでそれらの匂いの受容体を同定することができます。匂いと受容体の対応関係がわかれば、その結合をモデルとした人工匂いセンサの開発が可能であると予想され、将来的に線虫を用いた嗅覚解析は広く社会に貢献するものとして発展していく可能性を秘めています。
本研究で注目したジアセチルは、本来バターなどの乳製品に含まれているものですが、マンダム社がオヤジ臭(その中でも特に30代~40代のミドル脂臭)の成分であると発表しています。オヤジ臭が濃ければ濃いほど人間が嫌いであることから考えると、線虫と仕組みは同じなのかもしれません。
より詳しく知りたい方は・・・