鏡像異性体の片側を選択的につくる不斉合成反応には鏡像異性体を識別できる特別な触媒が必要です。分子触媒化学研究室の桑野良一教授・槇田祐輔助教らの研究グループは、以前インドール類の不斉水素化のために開発したPhTRAP-ルテニウム触媒が、よりたくさんの窒素原子を持ったアザインドール類の還元反応にも利用できることを発見しました。発見した反応を応用することで、効率的な医薬品の合成が可能になると期待されます。この研究成果はAngewandte Chemie International Editionに掲載されました。
右手を鏡に写したときに映し出される像は、右手ではなく左手のかたちに見えます。化学では鏡像と自分自身を重ねあわせられない分子をキラルな分子であると言い、右手と左手のペアのようにそれぞれが相手の鏡像になっているキラルな分子のペアを互いに鏡像異性体(エナンチオマー)の関係にあると表現します。さらに国際的なルール(IUPAC命名法)に従ってペアの片方をR体[1]、もう片方をS体[1]と書き表します。
鏡像異性体は物性(密度や融点・沸点などの物質に固有な物理的性質)のほとんど全てが全く同じ[2]です。ところが生物の体は鏡像異性体を区別します。鏡像異性体を嗅いだり食べたりしたときに別々の香味だと感じることがあり(たとえば私たちの嗅覚はR体のリモネンをオレンジの香り、S体のリモネンを松ヤニのような香りと認識します)、薬として摂取したときに異なる薬効を示すこともあります。
キラルでない原料分子からキラルな分子を合成する化学反応を通常の(鏡像異性体を識別しない)条件で進めると、ちょうど50%の確率でR体とS体のどちらかになります。化学反応はたくさんの分子を一度に合成するので、全体としてはR体とS体がぴったり半分ずつの混合物(ラセミ体)が得られます。片方だけが欲しい場合、生成物の半分は無駄になってしまいます。
これに対して、片方の鏡像異性体をより多くつくることを不斉合成と呼びます。人類は微生物の作る酵素を触媒として不斉合成を行ってきましたが、長い間これ以外の方法での不斉合成は不可能だと言われてきました。この不可能に挑んだ化学者らによって1960年代以降続々と、鏡像異性体を識別できる有機化合物(不斉配位子)と金属元素を組み合わせた不斉触媒が開発されました。不斉触媒開発の先駆者と認められたノールズ・野依良治・シャープレスの3人は2001年にノーベル化学賞を受賞しています。
不斉合成の効率は反応の収率や鏡像異性体比などの指標で評価されます。収率とは、原料分子のうちどれだけが合成したい分子(ただし両方の鏡像異性体をあわせたもの)になったかを割合で表したものです。鏡像異性体比はR体とS体の比率で、50:50から離れるほど高いエナンチオ選択性があると言います。収率が高く、鏡像異性体比がどちらかに大きくかたよるような、触媒とその他の合成条件(溶媒や反応温度など)を見つけていくのです。
野依らの研究によって、ケトンやアルケンなどの不飽和有機化合物を適切な不斉触媒を用いて不斉水素化することで鏡像異性体の片方をより多く合成することが可能になってきました(図2)。
しかし現代でもまだ難しいのは、芳香環の不斉水素化です(図3)。環の構成原子それぞれに水素を付加し飽和環をつくる反応の過程で、水素が環の表・裏どちら側から付加するかによって、どちらの鏡像異性体になるかが決まります。
研究グループの今回のターゲットはアザインドール類です(図4)。アザインドールを水素化することによってつくられる生成物は抗がん剤(三環性IAP阻害剤)と共通の骨格をもっており、様々な医薬品の効率的な合成に使われることが期待されます。
2つの環をもつ分子の不斉水素化反応では、環の表・裏どちら側から水素を結合させるか(エナンチオ選択性)に加えて、6員環・5員環のどちらを還元するか(化学選択性)もコントロールする必要があります。アザインドールのように両方の環に窒素原子が含まれる芳香族化合物では化学選択性をコントロールすることが難しいため、触媒的不斉還元に関する研究はこれまでほとんど知られていませんでした。
ここで登場するのがPhTRAP-ルテニウムです。これは元々インドール5員環の不斉水素化のために研究グループが開発した有機金属錯体触媒です。PhTRAP-ルテニウムに高い汎用性があれば、アザインドールに対しても同じように5員環側の不斉水素化触媒として働くはずです。
2-メチル-7-アザインドールとPhTRAP-ルテニウム触媒を、インドールの不斉水素化でも使っていたメタノールに入れて水素圧下で加熱すると、アザインドールでも5員環側が水素化され(化学選択性あり!)、鏡像異性体比93:7(エナンチオ選択性あり!)という良い結果が得られました。唯一の問題は収率が47%と低いことで、目的の反応が半分程度しか進まなかったことを意味します。研究グループはこの原因を、メタノール溶媒から供給された水素イオン(H+)が原料分子を分解しているからではないかと考えました。そこで水素イオンを放出する性質のないトルエンや酢酸エチルを溶媒にしてみると、高い化学選択性・エナンチオ選択性を保ったまま収率を98%に上げることができました。
ここまででPhTRAP-ルテニウムは2-メチル-7-アザインドールの水素化反応の高収率・高選択性を示す不斉触媒であることがわかりました。研究グループはさらに、アザインドール類水素化反応におけるPhTRAP-ルテニウム触媒に基質一般性があるかどうかを調べました。2-メチル-7-アザインドールの、メチル基(CH3)をほかの様々な置換基に変えたり、7-アザインドールでない3種類のアザインドールのどれかにしたりしても、PhTRAP-ルテニウム触媒を用いれば5員環側が還元され、高い収率・かたよった鏡像異性体比を得られるかどうかを調べたということです。
まずは置換基の変更です。酢酸エチル溶媒中で反応を行ったところ、7-アザインドールがメチル基以外の置換基をもっていたときも狙い通りに5員環が水素化され、たとえば2-エトキシカルボニル-7-アザインドールでは収率96%、鏡像異性体比97:3という値が出ました。同様に、様々な置換基をもつ4-アザインドール、5-アザインドール、6-アザインドールを原料とした反応も試しました。これらのどれについても概ね悪くない結果が得られ、たとえば2-メチル-5-アザインドールでは収率94%、鏡像異性体比95:5という結果になりました。
このように多くの原料と反応条件の組み合わせ(論文に掲載されただけでも35通り)を試す作業には長い年月を要しましたが、PhTRAP-ルテニウム触媒がインドール類に加えて、アザインドール類を原料とした還元反応にも使うことができる魅力的な触媒であることがしっかりと示されたのです。
触媒的不斉合成反応は一般的に、反応温度を下げると生成物の鏡像異性体比が向上します。しかし、ある種の4-アザインドールを原料としたときだけは反応温度を上げると鏡像異性体比が向上したのです。今は首をひねるばかりですが、この現象の仕組みもやがて解明されるでしょう。そしてこのような興味深い現象が発見されたのも、様々な条件を試してみたからこそだと言えます。
Note:
より詳しく知りたい方は・・・